娯楽という観念は恐らく近代的な観念である

「娯楽という観念は恐らく近代的な観念である。それは機械技術の時代の産物であり、この時代のあらゆる特徴を具えている。娯楽というものは生活を楽しむことを知らなくなった人間がその代わりに考え出したものである。それは幸福に対する近代的な代用品である。幸福についてほんとに考えることを知らない近代人は娯楽について考える。

 

(中略)娯楽が芸術になり、生活が芸術にならなければならない。生活の技術は生活の芸術でなければならぬ。

 

娯楽は生活の中にあって生活のスタイルを作るものである。娯楽は単に消費的、享受的なものでなく、生産的、創造的なものでなければならぬ。単に見ることによって楽しむのでなく、作ることによって楽しむことが大切である。」

 

三木清「人生論ノート」より

梅仕事のはじまり

大玉村で浩子さんと一緒に梅の収穫をした。梅仕事を去年は平日にみんなでやっていて、その様子を私は会社のトイレで開いたSNSを通じて見ていたので、ようやく念願が叶った格好。

 

彦太郎さんから、浩子ちゃん(姪)のところの梅が落ちはじめているからもぎどきだと聞いて、取らせてほしいと言いに行くと、(今度はなんだと恐らく思っただろうが)浩子さんはいいよ言って、いつものように道具から何からを段取りしてくれた。

 

ビニールシートを広げたいので、その前に、地面に落ちてしまった梅を綺麗に掃除した。既に木の下一帯に実が落下しており、ゴミ袋いっぱいになるまで熊手でそれらを集めて捨てた。

 

梅を取る方法は昔から棒で枝を叩くんだ、それしか知らない、と浩子さんは言った。手伝ってくれた友人が枝を叩いて、それを私と浩子さんで拾う作業が続いた。「器量のいい梅だけ選ばんしょ」とのこと。穴が空いたり樹液らしきが出たりしているものは鳥が食べたりしているので容赦なく放った。そのあと、浩子さんが棒を持った。「枝打ちも兼ねてるから」と、バシバシ叩いた。

 

掃除のところから合わせて、ものの20分そこいらで、バケツ1.5杯分ぐらいの梅の収穫が完了して、作業を終了した。バケツ1杯分は塩水に一週間つけて、このあと芳子さんと一緒に梅干しにする作業に移る。残りは東京に持ち帰って、よく大阪の祖母が作ってくれたように、梅ジュースにしようと思う。

 

今回驚いたのは、あまりにたくさん梅の実がなっていたことだ。私たちは木のせいぜい1/4ぐらいの範囲で、その日取りどきの梅を落としたにすぎなくて、木にはまだまだたくさんの実がなっている。なるほど通りで、昔から「梅仕事」と呼んで、夏前に一年分の梅干しをたんと仕込んでいた訳だ。梅の木は、一家に一本か二本あれば十分で、梅干しは家族の食卓に欠かせないものとなる。大玉村にいると、なるほど通りで、と日本人の暮らしや食事の必然性に気づく瞬間は少なくない。芳子さんは、朝ごはんに梅干しを食べないことには一日が始まらないと言っていたし、これのおかげで健康な気がするんだあ、と言っていた。御歳82歳。

 

まだ木にたくさん残っている梅は、今週末の滞在中にまた収穫して、カフェの分の梅ジュースを仕込もうと思っている。

染め場とカフェ

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振り返って、2016年の7月頭。友人で建築家の佐藤研吾からはじめて歓藍社の話を聞いたとき、私は「福島に通い始めたりして大丈夫なんですか?」というようなことを尋ねた。彼は「東京にずっと暮らすよりは、田舎に行ってのんびりして、トータルで見れば安全かもしれません」というようなことを答えた。それからほどなくして、歓藍社初の藍収穫期に、私も大玉村を初めて訪れて、以来およそ月に1度のペースで活動に参加している。どう見ても体に良さそうな旬の食事と漬物やら野菜やらのたくさんの差し入れ(感謝)、いつでもゴロンと横になれる彦ハウスの大広間、たびたび挟まれるお茶の時間、歓藍社や村の人たちとの呑気で人間味のある会話、各自のペースで没入できる農にまつわる共同作業、母のような安達太良山とどの季節も美しい大いなる田舎の風景。大玉村滞在中は、どこを切り取っても、それまでの暮らしの中にはなかった安心できる時間の連続で、いつからか、村で過ごす月一回の週末2日間で、向こう1ヶ月の東京での生活へのエネルギーを貯めて帰るような、そういうイメージが浮かんでいた。いつか佐藤さんが言っていたようなことが、私の身に起こりはじめていた。

 

歓藍社の人たちとの活動は、いつもだいたいそうだけど、その時も、だんだんと具体化していくイメージを共有しかけている時だった。藍染めをやるからにはいつかは染め場が必要だったし、彦太郎さん家の裏山で地滑りがあって沢山の丸太が手に入りそう、最初の夏の暖簾かけづくり以来くすぶっていた建築チーム(失敬)満を辞して出番か。そういうことがいくつも重なって、次の春から、そろそろ染め場づくりに取り掛かるような機運となっていた。

 

話は少し飛んで、歓藍社では2年目の夏の祭りのあとぐらいから、月一回の活動を一般の人にも公開しはじめた。HPやSNSで告知をすると、藍の栽培や染めに興味のある人、歓藍社のことをどこかで聞きつけた人などが、郡山や会津などの同じ福島県内、宮城、茨城など近隣のエリアからやって来るようになった。(加えて、メンバーの友人知人が毎回コンスタントに数名、東京からの車に合流して泊まりで活動に初参加している)説明もそこそこに、収穫や「葉っぱこぎ」(収穫した藍の葉と茎を分ける作業)を共にするなかで、各自がぽつぽつと自分自身のことや藍への関心、自分が身の回りでやろうとしていることなどを話しはじめる。いつの間にか、そういう車座での共同作業のスタイルが歓藍社らしい場の開き方のようになってきた。作業後の昼食(一部の人たちが並行して台所で準備をしたもの)も、大広間に大きな机を並べてみんなで輪になって食べている。(そのあとは、だいたい焙煎家の須貝が、前日の晩だか東京だかで台所を豆カスまみれにしながら手網で炒って、挽いて、ハンドドリップして抽出したコーヒーをみんなでいただく。手間を間近で見ている分、格段贅沢な味がするし、美味い)

 

昨年の10月、その日の活動にはどうやらタイ古式のマッサージを生業としている方が参加していた。私はマッサージに目がない。お昼のあと、図々しくも施術をお願いし、彼女は快諾くださった。いつものように彦ハウスに横になる。その頃本当によくお腹(おそらく胃か腸あたり)が痛くなっていたので、仰向けでみてもらった。「若いのにこんなに冷えてお腹がかわいそう」とか、そういうことを言われたと思う。触診のようなマッサージのような施術を受け、見慣れた彦ハウスの天井を眺めながら、今の生活はもうやめようとぼんやり考えたことを覚えている。

 

「私は居ようかなと思います」そのあと、午後の葉っぱこぎをしながら、染め場を作るとしたら誰かが住んだり長期滞在したりした方がいいねという話になったとき、それまではっきりと考えたことは一度もなかったけど、自然とそういうことが口から出た。「なるほど、そしたら、染め場とカフェと、あと民泊かな」とか、「暮らしながらセルフビルドか」とか、そういうことが口々に続いて、その日の夕方には、建設が想定される、浩子さんの旧母屋(通称ロコハウス)の寸法取りも完了した。それがごくごく当たり前という風に、私は春までに会社を辞めることが決定したし、歓藍社は3年目の種まきと同じ頃「染め場とカフェ」の建設に取り掛かることとなった。

 

ありがちなそれではあるが、都会っ子の私の考えるカフェは現代版の公民館だ。もしかしたら、昔の井戸端かもしれない。ふらっと行って呑気な会話をしたり、集まって何か次の作戦を練ったり、ひとりでの考えごとや、時々成果発表の場にもなる。横の染め場を眺め見ながら、そこで布と手を染めながら、そういうことができる場になるといいなと思っている。私をはじめメンバー数人はこれまでよりも腰を据えて大玉村にいることになるので、祝祭やハレの日ばかりでない、村での日常の時間や生活そのもの、それこそ、これまでずっと掲げていた”里山でのこれからの暮らしの風景づくり”にようやく取り組む契機になるかもしれないとも思っている。浩子さんや芳子さんに習って畑をはじめたり、甘い梅干しや柚子の入った干し柿、白菜の漬物など保存のきく食べ物を作ったり、それを食卓やカフェでお披露目したり、春を待つ、楽しい妄想は尽きることがない。そして、それはたぶん建築家や大工や関節家、デザイナー、焙煎家パン屋、チャイ屋、歓藍社にいる有象無象のメンバーがそれぞれに思い描いているような気もしている。私は、自分にとっての安全な場所として、大玉村で「カフェと染め場」をつくろうと思っているし、安心できる時間の連続、そういうものを体現した場所を開こうとしている。

39アートin向島2017 / SANTEN 出展ふりかえり

企画に対する振り返り

初参加ということもあり、色んな方から温かく迎え入れられたという感。ありがたい。当初、バックグラウンドもない芸術活動へ一人で参加する自信さすがなく、色んなメンバーの混合体として「SANTEN」を企画したが、詰め込みすぎた反省も。アート鑑賞者の心持ちのようなものが、お祭りや店舗の来場者のそれとはほとんど全く異質であることを漸く認識した。もっと余白をつくる、委ねる、売り買い以外のコミュニケーションの可能性を探る。アートプロジェクトの場だからこそ出来た実験が他にも数多くあっただろうことが少し悔やまれる。「靴下繕い」や「歓藍社(福島での藍染プロジェクト)」、「お直し」について今後も何らか“発表”していきたいと改めて考える機会になる。

 

https://www.instagram.com/p/BRiodbNAs4D/

建築家の岡啓輔氏登場で、服と建築と作ることと売ること、捨てないこと談義。SANTENは、普段しないような話しばかりが口をつく、不思議な歪みのある場な気がしてきた。岡さん遥々ありがとうございました! #keisukeoka #santen #39アートin向島

 

39アートin向島2017全体に対する振り返り

印象的だったのは、39アート来場者の特徴。向島の近隣住民、もしくは遥々向島までやってきて鑑賞ツアーを楽しんでいる人たちには、向島が持つ地域性やそこで起こる文化活動のバックグラウンドをよく理解し、このエリアで活動する人の創意工夫や、鶴見俊輔の言うような生活からはみ出た限界芸術を楽しむ余裕を持ち合わせてやって来ているという、とてもありがたい傾向が見られた。

 

https://www.instagram.com/p/BRgKsP3AYaK/

来場者の声

2週目の週末から石を並べた。たくさん石好きが来場し、世の中に隠れ石好きが多いことを知る。「小学生の時には既に石を拾い始めていた」「私は原石派だ」「新潟に石ころ聖地糸魚川がある」「カイヨワは読んだ方がいい」「(鞄から持ち歩いている石を取り出して)ぜひお見せしたい石がある」など、予想していなかったそれぞれの石論が飛び出し、なんとも牧歌的で幸せな午後の風景。

 

 

2017年春

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12年前、上京1年目らしいドキドキとわくわくを持って見上げた桜並木の光景を、強い意思を持って毎年確認しに来ている。昨日もまた、駅からみんなとの花見に合流するほんの数分間、ああまた春が来たんだと、花見独特の安っぽくて平和で平等な光景に浮かれてしまって、今年もまた頑張るぞとか、そういうどうしようもないことを考えた。あと少し振り返るに最近は、目の前に来たものを必死に打ち返したり、じっくり味わったり、そういうことが増えてあまり迷いがない幸いにも。インドや福島を訪れる中で、世の中や世界が広すぎることを目の当たりにして、わかったような口はきけないな何事にもという気持ち。探求したいことがある幸せと、何らか形にしていきたいなという焦り。

インド帰国メモ

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村の暮らしにはリアリティがあった。向こうにいるときはあまり意識していなかったけど、東京に戻って、街なかでかオフィスでか「ああ白々しいものばかりだな」とふいに気づき、頭から離れない。太陽の熱、木漏れ日、鼻歌。本当にそこにあるものごとだけに触れていたいよ。