染め場とカフェ

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振り返って、2016年の7月頭。友人で建築家の佐藤研吾からはじめて歓藍社の話を聞いたとき、私は「福島に通い始めたりして大丈夫なんですか?」というようなことを尋ねた。彼は「東京にずっと暮らすよりは、田舎に行ってのんびりして、トータルで見れば安全かもしれません」というようなことを答えた。それからほどなくして、歓藍社初の藍収穫期に、私も大玉村を初めて訪れて、以来およそ月に1度のペースで活動に参加している。どう見ても体に良さそうな旬の食事と漬物やら野菜やらのたくさんの差し入れ(感謝)、いつでもゴロンと横になれる彦ハウスの大広間、たびたび挟まれるお茶の時間、歓藍社や村の人たちとの呑気で人間味のある会話、各自のペースで没入できる農にまつわる共同作業、母のような安達太良山とどの季節も美しい大いなる田舎の風景。大玉村滞在中は、どこを切り取っても、それまでの暮らしの中にはなかった安心できる時間の連続で、いつからか、村で過ごす月一回の週末2日間で、向こう1ヶ月の東京での生活へのエネルギーを貯めて帰るような、そういうイメージが浮かんでいた。いつか佐藤さんが言っていたようなことが、私の身に起こりはじめていた。

 

歓藍社の人たちとの活動は、いつもだいたいそうだけど、その時も、だんだんと具体化していくイメージを共有しかけている時だった。藍染めをやるからにはいつかは染め場が必要だったし、彦太郎さん家の裏山で地滑りがあって沢山の丸太が手に入りそう、最初の夏の暖簾かけづくり以来くすぶっていた建築チーム(失敬)満を辞して出番か。そういうことがいくつも重なって、次の春から、そろそろ染め場づくりに取り掛かるような機運となっていた。

 

話は少し飛んで、歓藍社では2年目の夏の祭りのあとぐらいから、月一回の活動を一般の人にも公開しはじめた。HPやSNSで告知をすると、藍の栽培や染めに興味のある人、歓藍社のことをどこかで聞きつけた人などが、郡山や会津などの同じ福島県内、宮城、茨城など近隣のエリアからやって来るようになった。(加えて、メンバーの友人知人が毎回コンスタントに数名、東京からの車に合流して泊まりで活動に初参加している)説明もそこそこに、収穫や「葉っぱこぎ」(収穫した藍の葉と茎を分ける作業)を共にするなかで、各自がぽつぽつと自分自身のことや藍への関心、自分が身の回りでやろうとしていることなどを話しはじめる。いつの間にか、そういう車座での共同作業のスタイルが歓藍社らしい場の開き方のようになってきた。作業後の昼食(一部の人たちが並行して台所で準備をしたもの)も、大広間に大きな机を並べてみんなで輪になって食べている。(そのあとは、だいたい焙煎家の須貝が、前日の晩だか東京だかで台所を豆カスまみれにしながら手網で炒って、挽いて、ハンドドリップして抽出したコーヒーをみんなでいただく。手間を間近で見ている分、格段贅沢な味がするし、美味い)

 

昨年の10月、その日の活動にはどうやらタイ古式のマッサージを生業としている方が参加していた。私はマッサージに目がない。お昼のあと、図々しくも施術をお願いし、彼女は快諾くださった。いつものように彦ハウスに横になる。その頃本当によくお腹(おそらく胃か腸あたり)が痛くなっていたので、仰向けでみてもらった。「若いのにこんなに冷えてお腹がかわいそう」とか、そういうことを言われたと思う。触診のようなマッサージのような施術を受け、見慣れた彦ハウスの天井を眺めながら、今の生活はもうやめようとぼんやり考えたことを覚えている。

 

「私は居ようかなと思います」そのあと、午後の葉っぱこぎをしながら、染め場を作るとしたら誰かが住んだり長期滞在したりした方がいいねという話になったとき、それまではっきりと考えたことは一度もなかったけど、自然とそういうことが口から出た。「なるほど、そしたら、染め場とカフェと、あと民泊かな」とか、「暮らしながらセルフビルドか」とか、そういうことが口々に続いて、その日の夕方には、建設が想定される、浩子さんの旧母屋(通称ロコハウス)の寸法取りも完了した。それがごくごく当たり前という風に、私は春までに会社を辞めることが決定したし、歓藍社は3年目の種まきと同じ頃「染め場とカフェ」の建設に取り掛かることとなった。

 

ありがちなそれではあるが、都会っ子の私の考えるカフェは現代版の公民館だ。もしかしたら、昔の井戸端かもしれない。ふらっと行って呑気な会話をしたり、集まって何か次の作戦を練ったり、ひとりでの考えごとや、時々成果発表の場にもなる。横の染め場を眺め見ながら、そこで布と手を染めながら、そういうことができる場になるといいなと思っている。私をはじめメンバー数人はこれまでよりも腰を据えて大玉村にいることになるので、祝祭やハレの日ばかりでない、村での日常の時間や生活そのもの、それこそ、これまでずっと掲げていた”里山でのこれからの暮らしの風景づくり”にようやく取り組む契機になるかもしれないとも思っている。浩子さんや芳子さんに習って畑をはじめたり、甘い梅干しや柚子の入った干し柿、白菜の漬物など保存のきく食べ物を作ったり、それを食卓やカフェでお披露目したり、春を待つ、楽しい妄想は尽きることがない。そして、それはたぶん建築家や大工や関節家、デザイナー、焙煎家パン屋、チャイ屋、歓藍社にいる有象無象のメンバーがそれぞれに思い描いているような気もしている。私は、自分にとっての安全な場所として、大玉村で「カフェと染め場」をつくろうと思っているし、安心できる時間の連続、そういうものを体現した場所を開こうとしている。