毎朝

毎朝同じ時間の電車に乗らないといけないことがやっぱりいつまでも苦痛な訳ではあるが、いつか何かの役に立ちそうと思って、毎朝の電車で隅田川を渡る数十秒、毎朝窓の外をじっと観察してる。冬の空は広く、初夏のそれははちきれそうだとか、葉が青く赤く変わっていく様、夏の水面、冬の輪郭、いろんな要素が飛び込んできて飽きない。同じく毎日会社に行くことが相変わらず苦痛な訳ではあるが、ビルの36階にある自席に戻るときチラッと見える東京湾を望む景色にいつも瞬間的に晴れ晴れとした気持ちにさせられる。言葉を持ち合わせておらず、そのまま書くとチンケで居た堪れないのだけど、自然とアクセスする瞬間に充電されるエネルギーのようなものに、齢30にして漸く気付いてきたように思う。こう書くと、なんや1年弱、毎朝同じ景色を観察し続けてきた甲斐があったようにも思う。

大玉村と藍のこと

掌を真っ青に染めていた藍がおおよそ取れてしまって、少しさびしい気がしている。爪はまだ少し青い。村で2日間、見聞き体験して感じたことも、同じように薄れてしまわないうちに。

 

福島のこと、放射能、村の暮らし、お年寄り、建築、いろいろと要素が多く、例によって消化不良中ではあるが、ひとまず一番手近で重大発見だった、お直しの素材としての藍について。

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とかく村のお母さん達が圧倒的だった。おそらく「何か染めたい白いものを持ってこい」という呼びかけがあったのだろう。Tシャツ、ハンカチ、ブラウス、帽子、ありとあらゆる ”長年身につけて飽きたor黄ばんでしまったもの” をほいほいと染めて、割にご満悦の表情で持ち帰る様。白Tを新しく購入して挑んだ私、完敗である。お直しに染料、、、知識としてはあったけど、完全に失念してた。ぴったりじゃん! 気軽な藍染、、持ち物総藍色化、、、これは探求したい。村の人たちの経験に基づいた軽やかな創意工夫、ものとの付き合い方も、もう少し観察したい。

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参加したプロジェクト、歓藍社ではその試みとして「近い未来の大玉村に当たり前のように存在する、地域に馴染む生活の場を想像すること。ひとまずそれを小さな絵で描いてみること」という標語が掲げられている。小さな絵とは。村で描かれる小さな絵とはどれも、こう、人の尊厳や歴史文化を大切にした素朴で穏やかなそれになることが十二分に予見される滞在だった。母のような父のような安達太良山に見守られ、どこまでも続く水田が美しい村。気立てがよくて創意工夫に富む農家を中心とした村の人たち。おおよそお年寄りと呼んでいいであろう彼らがこれまで、何を大切にして、何を悔やみ、少しばかり何を生み出そうとして、めいめい試みに協力をくださっているのか、ひょうひょうと、しかと、聞いておきたいなと思う。それで、私もいくらか小さな絵を描きたいなと思う。

YOU'RE MINE FOREVER.

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新しい要素が多すぎて、まったく消化できていない。咀嚼にまだしばらくかかりそうな、なんかそういう不思議な3日間と、その準備期間(一週間)だった。ものすごく疲弊しているのだけど、それは、エネルギー強めの人達が集まっていたからなのかなとも。とりいそぎ、疲れていることだけ、備忘録メモ。お直しは義務感でやっている。作ること直すことを手放してしまったら、人のありようみたいなもの空虚になってしまいそうに思う。私はまだ色んなものが諦められない。

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飛行機

滑走路に並んだ飛行機
雲を抜けて上昇する飛行機
東京湾に浮かぶ無数のタンカー
ど肝を抜く黒富士
画面一杯埋め尽くされた様な山脈
パッチワークみたいな田んぼ
人工的でグロテスクなビニールハウス
京都と大阪の境界線
街中へのダイブのような着陸

エアラインに関係する仕事をしているんだからもっと飛行機に乗らなくちゃ、と意気込んで初めて羽田−伊丹で帰省した。国内線の飛行機って、こんなにくっきり日本列島見えるもんなの。学び多すぎ。いつから私はこんなに感動屋になったのか。それにしても阪急電車の超弱冷房なこと。団扇、扇子で扇ぐおっさんだらけ。エコお〜

若者の終わり

なんか、10連休最終日の今、猛烈にもう若者の時代は終わった感ある。もう若い感じの楽しいことは、終わりにせなならん、終わって然るべき感ある。良いように言えば、大人になった感。もう大人だ。しゃんと、しゃんとして暮らすのみだ。

今ここ

今ここ感があるっちゅうのは、何よりも大事かもしれんなとうすうす、実感伴って気づいてきた。今!ここ!

そんな今ここを閉じこめたくて、桜の塩漬けに挑戦。堤の八重桜を拾うのも、ザルいっぱいのそれを洗うのも、あまり他人とは共有しづらい今ここ私だけの遊びだった。できあがったそれはおむすびにして出かけたい。そう言えば、おむすびにも今ここ感ある。つまりそれは幸福。

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